九州アートディレクターズクラブ

BATON TALK

Posted on 2020-02-10

今回バトンをいただいた河野くんと同じ宮崎の河上です。

 

もう呼び出し説教レベルなくらい、ほったらかしていてすみません。

年末年始、年度末が絡むこのタイミングで、バトンを渡してきたのは

僕を貶める河野くんの策略かと思ってます。 笑

 

そうです、僕は大阪生まれの大阪育ち、33歳まで関西で育った大阪人です。

 

そして宮崎に移住してきて今年で14年が過ぎました。早いもんですね。

 

それまでは大阪のプロダクションで、大阪・東京のクライアントを中心に、アートディレクター兼、グラフィックデザイナーとして働いていました。就職した頃は時代的にもまだまだMacもこれから、って位の時期で、トンボもロットリング、バリバリ版下引いていた時代です。そして日々の仕事の感じでいうと、僕も例に漏れず過労死レベルってやつ働いていました。それでも周りの仲間に負けたくないって気持ちと、先輩達にもいまに見とけよ~、って感じで意気込んでいました。若気の至りってやつですね。

 

当時のプロダクションでは、いろいろな経験もさせてもらったし、多分この時期がなかったら、いまもデザインの仕事はしていなかったんじゃないかって思うくらい、ものすごく勉強させてもらいました。

 

そんな生活も10年近く過ぎて、結婚して子どもが生まれたりなど、身の回りの変化や、少しづつ体力的もキツくなったり、そして何よりも10年ほど頑張ってきて、何となく自分の実力も見えてきて不安になったりしているうちに、だんだん気持ちの変化というか、ちょっと自分の時間もとりながら、少しゆっくりしたペース仕事したり、子どもは田舎でのびのび育ってほしいよな、などと思い始めたのが移住のきっかけでした。

 

若い頃から年取ったら田舎暮らしをしてみたいという想いは何となくあったんですよね。でも30歳くらいまでは、むしろ東京で一旗上げたいっていう気持ちの方が強かったんです。でもふと、歳とって見知らぬ土地に移住して、馴染めなくなってどうしようも無くなるより、失敗してもやり直せるくらいの若いときに思い切って移住してしまう方が正解なんじゃないかってことも考えたりして。

 

そして、なによりの決め手は

 

 

これですね。 笑

 

そこからは、ひとまず何箇所か候補地見てまわって、気持ちも固まってきて一年半ほどかけて仕事と生活環境の下調べして、平成18年になんとか無事宮崎県へ無事移住・就職しました。今は移住に関してのさまざまな情報や手厚いサポートがあるけど、当時は情報やサポートもほとんどなく、実際動いて、見て聞いてまわってっていうのが普通だったんで、羨ましいかぎりです。

 

でも、この時点で独立にはまったく興味なしでした。

 

もともとデザインするなら独立していろいろ雑務や業務が増えるよりは、勤めている方がクリエイティブに集中できると思っていたし、当然、宮崎には友達・知り合いなど一人もいなかったので独立自体無謀ですよね。なので移住後は、地元の印刷会社の製作室に入社。ひとまずは満足な第二の人生の滑り出しができた感じでしたが、当時の自分からすると、結構大きな決断と転機でしたね。

 

移住して、職種は変わらなかったんで、仕事自体は正直、自信あったんです。移住前はそれなりに仕事もしっかりこなしていたし、宮崎を変えてやろうとまでは言わないけど、それくらいの勢いはあったんですよね。でもしばらく仕事して、何をやってもあまり認められない。空回りが多くて、正直移住してまずったかなって思うくらい。

 

いま思えば当然ですよね。

 

田舎と都市部じゃマーケットも考え方もまるっきり違うし、都市部のやり方をそのままやっても、上手くいくわけないですよね。勘違いも甚だしい 笑。 何となく仕事の塩梅がわかり始めて、少しずつ上手くまわり始めたのは、2年以上経ってから。

 

そんなこんなでなんとか4年くらい過ごしていて、今度は、突然、はっ!と気づいちゃったんです。

 

収入は前職から比べると1/3カットくらいの年収。でもこれから子どもの進学や家のローン、どんどん出費がかさむけど、まわりの先輩や同業の方の話しを聞いても、このまま今後もあんまり収入が上がっていない? 10年後このままでは暮らしていけないよね?? 移住した当時はデザインで成り立っている人も居なくはないけど少なくて、そもそも印刷見積の中にデザイン料って入っていると、クライアントから何ですかこれ?みたいな世界だったので。

 

また、ゆっくりしたペースで仕事がしたいといいながら、県内の業界のクオリティと、受ける仕事の質には満足できなかったっていうのが本音でした。求めるクオリティも理解してもらえず、こんな仕事の仕方あかんやろ、みたいな感じで、自分で自分の仕事を増やしてしまって結局夜中まで仕事している 笑。

 

そんな感じなんで会社内でもギャップがどんどん開き、少し浮いた状態、仕事は好きだけど会社に行くことがだんだん苦痛。さあ、どーしたものかと悩んだところで、人生2度目の転機、もう答えは一つ。一か八か、何の当ても補償もないけど、平成22年にエイやーって独立。自宅で仕事は性格的に無理だったんで、お金も無いの事務所を建てて、三方田んぼのデスクから見上げれば社窓は稲穂がみたいな、田舎ならではの環境でスタートしました。

 

独立してからは3年くらいはもう、四の五のいわずに何でもかかってこいみたいな感じで、今までやったことのなかったことも積極的に関わる事が多くなり、逆にそういう案件が出そうな時には進んで受けるようにしました。ウェブもパッケージも、やった事ないのに、できますか?、全然できます!って大口叩いて、受けてからさーどーしよ、みたな 笑。でもやる気があれば何とかなるもんですね。数年前にはスタッフも迎え、二ヶ所目の事務所も構えられて、何とか生かさせてせてもらってます。

 

 

贅沢してつくれるほどの予算があるモノなんてあまり地方には無いけど、都市部にいても厳しいのは一緒だし、逆にほとんど何でも自分でこなさないと仕事がまわらなかったりするんで、手数も増えて、今では逆にいろんな良い経験をさせてもらってます。結果のんびり過ごすどころか、結果的には以前以上にドタバタドタバタしている事が多いけどだからこそ得られた精神的幸福度というか、満足感はかなりあるので、まぁよしという事で。

 

宮崎はコンパクトな町だし、〝地方ならでは〟みたいなものも結構あったりするけど、口コミ(噂話?)も早いし、頑張っているといろんな人とすぐ繋がれる。いろんな人が見つけてくれて、声かけてくれて、みんないい人ばかり。僕には宮崎の町に助けられてばかりしている感じがしていて、自分は幸せもんだなーって。そうやって成長させてくれるこの町が大好きで、だから何か自分なりに恩返しできることって考えるとやっぱりクリエイティブしかなくて、LOVE宮崎!をテーマに、これからもこの町に自分なりに恩返ししていければです。

 

これから先、あまり大きな転機は歓迎したく無いけど、今の天気はまあ、快晴かな。

次回のBATON TALKは・・・

pass the baton!

次のバトンは東花行さん。
デザインも出来て、ディレクションもできて、歌って踊れるカメラマン。
同じ移住組として、感じていることや、これからのこと、いろいろ教えてください。

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